5.テレビジョンの実用化に関する発明について



  日本における初期のテレビ開発に活躍した技術者は2人います。一人は安藤博であり,一人は高柳健次郎です。この2人が日本のテレビの基礎を築いた技術者です。
  安藤博はテレビの開発に情熱を持って取り組んでいました。安藤博が24歳になった1926年,ニプコーの円盤によるテレビの実験放送に日本で初めて成功しました。おそらく彼が日本人として一番先にテレビ画像を見た事になります。これは,J.ベアードが発表した時期と同じです。
  当時の日本におけるテレビ開発は,世界のレベルと比較して大変に先行していました。この頃,安藤博はテレビの事を「ラジオ映画」と呼んでいました。テレビの意味はTelevision(遠距離:teleと風景:vision)の略です。
特許第89130号 「ラヂオ,テレヴィジョン」


安藤博によるテレビ実験成功のニュース
  早稲田大学新聞1926年11月4日号によると「若き安藤君が驚異的の大発明,各国を出し抜いてラジオ映画に成功。校友の安藤君が世界的テレビジョンの一大発見を見るに至って去る19日付けをもって,いよいよテレビジョンが我が特許局から特許権を許可され,翌20日逓信省の実験許可が出た」と報じ,さらにテレビの動作原理について誰にでも簡単に理解出来る様な解説をしています。
  実験の許可に基づき,日本最初のテレビ実験放送が1929年2月1日から毎週2回(土曜と日曜)何れも1時間に渡って開始されました。波長38m〜300mの電波を使用しています。ニプコーの円盤は24個または48個の小穴が開けられており,回転数は800rpmから1300rpmでした。
  しかし,安藤博はこの頃から機械式テレビに行き詰まりを感じ,電子式テレビへと研究に方針を変更しています。
  一方,高柳健次郎は1923年,本屋の店頭に並べられていたフランスの雑誌に心を打たれたとの事です。この雑誌の表紙にはラジオの箱の上に平面ディスプレイが載せられており,この中で歌手が歌を歌っていたのです。彼はこの様なものを作りたいと考え,テレビ開発を決意したとの事です。多くの困難を乗り越え,高柳健次郎はニプコーの円盤とブラウン管を用いた半電子式テレビを開発しました。彼は1926年に「イ」の画像送信に成功しています。この様に,同じ時期に,安藤博と高柳健次郎は日本で初めてテレビの実験に成功した事になります。
         


  ところで,大阪毎日・東京日日新聞社発行の「ホームライフ」1940年2月号によると,「多極真空管の発明や,わが国で最初のテレビジョン放送を行った経験のある有名な安藤研究所は,安藤氏の発明した二次電子作用法を応用したテレビ受信機が最も簡単な回路構成であり,将来は500円の費用で生産できるであろう。」という内容が掲載されています。
  テレビ時代の幕明けに先立ち,各家庭へテレビを普及させるためには,如何に安く作るかが重要であると,安藤博は見ていたのです。そして,常に新しい技術にチャレンジを続けていました。
安藤博が開発した「家庭用受像器」